「錦帯橋」は、岩国藩の城下町で藩主や上級家臣の住む「横町」と中下級武士や商人らが住む「錦見(にしみ)」を分かつ幅約200メートルの錦川を渡すため、17 世紀後半に架けられた木造アーチ橋です。石敷の護床工がまもる中央4基の橋脚と両岸の橋台に、中央3つのアーチ橋、両端2つの桁橋を架けた5連橋です。
この「錦帯橋」は、日本で長く続いた中世戦国期を終え近世江戸期の泰平を迎えた17 世紀後半に築造されたもので、古代より寺社仏閣を建立してきた日本の伝統的建築技術と戦時の城郭建設などを通じて頂点を迎えていた武士団の土木・建築技術が、平時において高度に結合したことを示す科学技術の集合体であると言えます※1。
その技術の核心である「錦帯橋式アーチ構造」と呼ばれる構造は、束ねられた小径木材(直材)を巻金で補強したアーチリブを主要構造体とするもので、木造でありながらアーチの構造をもつ橋としては世界で唯一のものであることが証明されています※2。巻金で束ねることで小径木材間のモーメントを解放し軸力のみを伝えるこの構造システムと、身の細いアーチ橋の揺れを抑える鞍木と助木による制振システムは、35.1m という当時の木造アーチ橋としては破格の径間を達成すると同時に、滑らかな曲線を描き出し、顕著な機能美をみせています。
急峻な山々を背景に3連アーチが4つの石積橋脚を次々とわたり、石敷の「護床工」に覆われた清流錦川の浅瀬に映り込む姿は美しく、その類い希な錦帯橋の景観美は、参勤交代の際に立ち寄った西国大名や旅行者によって徐々に世に広まっていき、19世紀初頭には、海外にも影響を与えた葛飾北斎や歌川広重などの「浮世絵」に描かれるなど、名所としての地位を確立しました。
この比類なき構造をもつ木造アーチ橋は、初代橋流失後3度目に当たる元禄12年(1699)の架替えの際に描かれた現存する最古の図面をはじめとし、その後に描かれたものを含む近世の計12枚の図面および近代以降の図面を継承し、これらを元に伝統的木造技術で架替えられ続けました。そして昭和25年(1950)のキジア台風まで、実に276年間流されることはありませんでした。すでに近代を迎えていたこの流失再建の際にも、地域社会は車社会に便利なコンクリートや鋼材の近代橋ではなく、その美しい木造アーチ橋を選びました※3。
このように「錦帯橋」は、17世紀までに発展した日本の伝統的木造技術によって建造された橋梁の独創的なアーチ構造と美しい姿を継承した他に類をみない顕著な普遍的価値を有する文化遺産であると言えます。
※1: 日本の伝統的な建築技術と戦時技術(築城技術)が高度に結合し、平時技術(橋梁技術)に転換したことを示す科学技術の集合体の顕著な見本
慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで敗れ岩国に移封された吉川家は、山陽道と海岸線に近い経済・交通上の適地、岩国を選んで城下町を築きました。三方を山に囲まれ、その谷間を蛇行する錦川に縁取られた急峻な山(城山)と河岸段丘からなる横山に中心を定め、来たるべき戦に備えました。山上に要害を築き、錦川を外堀に見立てて東麓に政治の中枢機関を配置することで、より高い防衛機能を発揮させようとしました。しかし横山は狭隘であったためすべての統治機能を集約できず、大半の家臣が暮らす屋敷地、寺町や町人地といった他の城下町機能は、外堀である錦川を隔てた東の錦見に配置されました。この時点では、錦川に架かる橋は、戦時には壊しやすいこと、つまり「流されてもよい橋」であることが重要でした。
ところが、元和元(1615)年の一国一城令で岩国城が破却されたことと、その後の幕藩体制の確立によって、狭隘な戦時の城下を平和時にも使い続けることとなったのです。意味的な都市機能として、錦川は敵の侵入を防ぐための外堀から対岸の町とを繋ぐ内堀となりました。このため城下町の一体的な統治を可能とするには、象徴的にも実際的にも「流されない橋」が不可欠となります。こうした必然性から延宝元(1673)年に誕生した「流されない橋 錦帯橋」が、岩国城下町を完成させることとなりました。錦帯橋が存在する意味は、この地形と防御的都市の平時における土地利用とその要素としての城山、河岸段丘、錦川、山上の要害、横山と錦見の両町との関係から理解でき、そこに錦帯橋という象徴的で実際的な結節装置が不変に配置されているということが重要なことがわかります。
世界で唯一の構造である「錦帯橋式アーチ構造」(※2で後述)を完成させたのは、寺社建築築造で永年にわたって蓄積された和釘、木組みの仕口や継手、ダボ、重梁(斗栱)等の伝統的木造技術と、長く続いた戦国の世に鍛え上げられた戦に勝つための技術、すなわち堅牢な城郭石積を造る技術や、近傍で入手可能な石材や小径木材(直材)のみを用いて、例えば巻金によって大径の柱をつくるといった短期間に築城する武士集団による普請(土木)と作事(建築)の技術の結合でした。
錦帯橋は同じ姿で数多く架け替えられ続けてきていますが、根本的なアーチ構造を維持しつつ、改良も加えられてきています。延宝2年(1674)に初代の橋が流された後、護床工を広く敷くことで橋脚周辺を固め、さらにその後、鞍木と助木で橋梁を補強することによって、この唯一無二の構造形式を完成させました。加えて、洪水時に両脇の桁橋の橋杭組が流れるようにつくることで、橋梁全体が流されない工夫を施しました。この桁橋2橋とアーチ橋3橋を組合わせ、「流されない橋」として機能させているのです。昭和25年(1950)の流失では、創建時から276年間不動であった空石積橋脚が崩れたことから、再建時には、橋脚や護床工にコンクリートを使用し外観を保存しつつも、より安全な「流されない橋」としました。
錦帯橋は、太平の世が訪れる中で、この日本古来の伝統的建築技術と前時代の軍事技術が結合して生かされている点が希少かつ重要なのです。さらにはこれを、地域の技術者たちが今日まで300年以上にわたって継承してきたことは特筆すべきことと言えます。
※2: 世界で唯一の構造を持つ木造アーチ橋であることの証明
錦帯橋はアーチを主構造に用いた橋であり、ヒンジ端(自由端)をつくり出す「隔石(へだていし)」により、受けた支点部に生じる鉛直・水平反力を軸力に転換することで、アーチを構成する各部材に作用する曲げモーメントを軽減する構造となっています(昭和25〔1950〕年の昭和の架替え以降は、弾性固定端の「沓鉄(くつてつ)」に変更)。しかし、錦帯橋でアーチ形成に使われる部材は、石造アーチ橋の場合とまったく異なっています。石造アーチ橋では、ブロック形状のものを横に並べ、隣り合う石同士を密着させ、ずれないようにすることが大事です。それに対し、一つの桁部材が約6mから約8mと長い錦帯橋では、軸力をわずか一辺170mm足らずの矩形断面で伝えることは至難の業です。このために考えられた技が、桁材の端部を鼻梁と後梁とで密着させることでした。桁材を1つなぎで伸ばしていくことは難しいため、上にのる桁部材を約3分の1ずつずらしながら巻金で結んでいきました。ずらしながら、先頭と後ろに横梁を用意して、そこで軸力を伝えます。軸力が卓越し、ずれが小さくなるようにずらし、角度を変えながらずらしてできた桁の隙間は楔で埋めており、アーチになった時に、良い形で圧縮力を伝えることができます。
これらの特徴から、錦帯橋のアーチ形式は、「錦帯橋式アーチ構造」と呼ぶ他はなく、世界の他の木橋に類を見ません。さらに、ヨーロッパにおいて扁平な石造アーチ橋を実現したのは18世紀末であるのに対し、錦帯橋では130年も早い17世紀末に木造によりそれを達成していました。なお日本においては、寛永11(1634)年の長崎眼鏡橋の架設にみられるように、アーチと言えば石造アーチ橋でした。木造アーチ橋は、同程度の曲率の湾曲材を揃えることに難点があったため、全く異なる曲率で発想された錦帯橋を除けば、湾曲集成材が登場するまで一般化していていません。以上より、「錦帯橋式アーチ構造」という独特の構造が世界の木橋史およびアーチ橋史に占める位置は極めて特異であって、錦帯橋は顕著な普遍的価値を有すると言えます。