「萩まちじゅう博物館」(※1)は、毛利氏による萩開府400年を記念する2004年11月11日、拠点施設である萩市立の総合博物館「萩博物館」(※2)とともに開館しました。これはフランス発祥のエコミュージアムの考え方に基づくものです。そこでは市域全体を屋根のない博物館とみなし、市民と行政、事業者や訪問者が一体となって博物館活動を展開することで、有形・無形のおたからを日々再発見します。発見されたおたからは、ありのままにあるいはより良い状態に手入れされ、住民の語りとともに元からの場所に展示されます。そうしたおたからは、多様な人々や他のおたからとつながって地域の大切な遺産となるのです。
「萩まちじゅう博物館」は、そうした新たな文化活動と地域景観の創造、そしてその基盤に立った観光開発をめざす壮大な取組みです。
平成大合併前の旧萩市を舞台に始まったこの活動は、2005年に1市2町4村が合併した後も、対象を全萩市域に拡大し展開しつづけています。例を挙げれば、26のサテライト・エリアの誕生(※3)や世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」への登録(※4)、萩ジオパーク「維新とマグマの胎動の地」の日本ジオパーク認定(※5)、萩まちじゅう博物館第二の拠点施設「萩・明倫学舎」の開設(※6)などを経て、活動の輪はさらに広がりをみせています。
国内的には、「萩まちじゅう博物館」は国の最優先課題である地方創生を牽引する重要施策「歴史まちづくり法」(2008年)や「文化財保存活用地域計画」(2017年の文化財保護法改正で導入)のモデルとなっています。さらに海外に目を向ければ、国際協力機構(JICA)の国際協力技術支援のモデルとしても採用され、ヨルダン、エチオピア、ジンバブエ、フィジー、ペルーに技術移転されています。
地域固有の文化が光を放ち、その輝きに導かれた人々が遠来から訪れ集うことは都市本来の姿であり観光本来の姿です。市民が主人(あるじ)となって場をしつらえ、客を招き交流する。こうした「萩まちじゅう博物館」をぜひ訪ねてみて下さい。
(『新・萩まちじゅう博物館(※7)』の序文を一部加筆修正)
【関連リンク】
※1:https://www.city.hagi.lg.jp/site/machihaku/
※2:https://hagimuseum.jp
※3:https://www.city.hagi.lg.jp/site/machihaku/list131-466.html
※4:https://www.city.hagi.lg.jp/site/sekaiisan/h19508.html
※5:https://www.city.hagi.lg.jp/site/hagigeo/h21993.html
※6:https://www.city.hagi.lg.jp/site/meiringakusha/
※7:https://www.cats.hokudai.ac.jp/topic/view.php?id=20241011144156&page=3
※これらビデオクリップはJICA本邦研修の研修生用に作成したものです。






日本各地で建設された近世城下町は130以上を数え、そのほぼ全てが捨てられることなく近代都市の基盤となりました。なかでも日本海に向かう三角州に佇む萩は、今も江戸時代の地図を手に歩ける町です。この町がこうした文化遺産となる経緯を歴史的にみてみると、意図しないいくつもの偶然の選択がありました。
ひとつは、城下町の街路景観が維持されたことにつながる選択です。維新後に禄を失った旧士族を養うために導入された夏蜜柑栽培は、広大な武家屋敷の地割りをそのまま残し、風に弱い夏蜜柑の風よけに土塀や長屋門などの道沿いの建造物を使い続けることになりました。また、一藩の城下町を築くにはやや広すぎる三角州に、毛利氏はゆったりとした幅員で道路を敷き、その道のほとんどが隅切りも拡幅もされることなく、軽自動車と自転車によって市民に使いこなされています。連綿と続く土塀がつくりだす江戸時代の街路空間が今日に伝わる偶然でした。
そして二つ目の選択は、山陰線を三角州内に通さず南に迂回させたことです。よその城下町由来の都市では、鉄道駅がまちの中心に持ち込まれ、否応なくまちの表裏をつくり出しましたが、萩では近世城下町の空間秩序がそのまま維持されました。
三つ目の選択として、城下町の本丸、二の丸などの城郭の跡地を公共施設の開発に使わなかったことがあります。よその城下町由来の都市では、中心部周辺に密度高く形成された町人地や寺町などに広大な役所や市民ホール、裁判所などの公共施設用地を求めることができず、埋め立てた内堀や外堀、旧二の丸・三の丸にその用地をあてたため、城下町の核となっていた空間が改変されてしまいました。これに対し、萩藩は、一藩の城下とするには十二分な広さの三角州中央部に遊水池としての湿地を残したまま囲むように城下町を建設しました。そのため、近代以降の公共施設用地を旧城下町中心部に求めることができたのです。広大な武家屋敷の分筆と鉄道敷設による都市構造の分断を免れただけでなく、城下町の核となる城郭の構造を今日まで失わなかった偶然でした。
こうして、多様な偶然の判断が重なり、必ずしも意図せず受け渡されたとも言える萩城下町の景観ですが、その魅力を十分に知る市民は、早くから景観の保存・保全に取り組み、積極的にその価値を日々の暮らしに生かし、かけがえのない城下町の空間を使いこなしています。国から重要文化的景観の選定を受けているわけではありませんが、萩の旧城下町には、まさにリビングヘリテージとしての文化的景観が息づいていると言えるでしょう。
萩博物館の清水満幸氏がこうした経緯や城下町萩の魅力をさらに詳しく著書にまとめておられますので、ぜひ一読下さい。
【関連図書】
・清水満幸『城下町萩のひみつ-変わらない「まち」の魅力-』萩ものがたりNo.81, 2024
・清水満幸『萩再発見-語り継ぎたい歴史と民俗-』萩ものがたりNo.80, 2023
https://www.shiseikan.ac.jp/hagi-story/hagistory-backnumber#81
萩市には、堀内・平安古・浜崎・佐々並市の4つの国選定重要伝統的建造物群保存地区があります。一つの自治体に4つの重伝建地区という数は、京都市、金沢市と並ぶもので、継承されている建造物の量と質の豊かさとともに、それらを保存していこうとする市民と行政の意識の高さを示していると言えるでしょう。
伝統的建造物群保存地区制度が始まってまだ間もない1976年に「萩市堀内地区」「萩市平安古地区」は重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。この伝建地区の価値の中心は、武家屋敷の敷地割がほぼ完全に残され、その上級武家屋敷地の境界を示す土塀や石塀、生垣あるいは長屋門や長屋の屋敷建築が連続して切れ目なく多く残されている街路景観にあります。明治期に多くの武家屋敷が夏蜜柑畑へと転用されたため、藩政時代から残される主屋、長屋門、長屋などの武家屋敷建築の数は限られますが、残るものはいずれも大切に保存され、塀垣や庭と一体となって当時の武家のたたずまいを伝えてくれています。
萩の城下町が、指月山から採られた乳白色の花崗岩と、笠山火山からの黒色の安山岩の2種類の石からできていることを知って見ると面白いです。上級武家地で土塀や長屋の基礎に使われた指月石と、加工が容易で下級武家や商家で使われた笠山石、これが明治になると再利用され、入り交じります。こうした路端の石積み塀の模様と、昭和、平成に景観保存運動として施された漆喰壁や土壁の修復は、それぞれの屋敷の400年間の歴史を雄弁に物語っています。そうした手づくりでしつらえ積み重なる歴史を、萩市民は、心から楽しんでいるように見えます。
【関連リンク】
・『萩市堀内・平安古地区伝統的建造物群保存地区見直し調査報告書』2004年
(PDFファイルをリンク)
・『萩市堀内地区伝統的建造物群保存地区保存計画』
https://www.city.hagi.lg.jp/uploaded/attachment/14324.pdf
・『萩市平安古地区伝統的建造物群保存地区保存計画』
https://www.city.hagi.lg.jp/uploaded/attachment/14325.pdf
浜崎は、藩政期に萩城下の港町として機能した地区で、それまで観光目的地として全く無名であった歴史的町並みが、観光まちづくりに大きく成功した事例のひとつです。伝統的建造物群保存対策調査が1998,9年に実施され、その成果を受けて2001年11月、全国で60番目の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。この調査で注目された成果は、この浜崎という町が、おそらくは萩城下町ができる以前から存在した中世由来の港町であることがわかったこと、そして130棟もの伝建家屋が見つかる中、10棟もないとされ潜在していた江戸時代に遡る主屋・土蔵等が44棟も発見されたことでした。こうした発見は、武家のまちとして認識されてきた萩において、町人由来のまちに貴重な遺産が眠っていたことを証明することとなり、浜崎地区住民にとっては大きな自信回復の契機となりました。それまでは、国指定史跡「旧萩藩御船倉」がある以外はほとんど知られておらず、観光客も訪れることのない空き家と高齢化の町であったからです。
1998年当時、「電柱で写真も撮れない」と言われていた浜崎の本町通りは、修理・修景事業により見違えるように整備された建造物群と電線類の地下埋設によって生まれ変わり、もてなすご婦人方や住民ガイド、訪れる観光客の笑顔で溢れています。年間の訪問客数も最盛期には2万人に迫り、かつての商店や土蔵も再び蔀戸や引き戸を開け、カフェやレストラン、美容室、書店、ホテルやゲストハウスなどの新たな商売をはじめるようになっています。これらの多くは、萩に魅力を感じて移り住んできた新たな居住者によるものです。
(『新・萩まちじゅう博物館』より一部抜粋の上、加筆修正)
佐々並市の「市」とは、参勤交替の際などに藩主が休息した、御茶屋を中心とした宿駅機能を有する集落のこの地域での呼び方です。かつての萩城下町と三田尻(防府市)を結ぶ萩往還の中間点に位置し、萩を発った藩主が2泊目の宿としました。町並みは、農業を基盤としつつ、萩往還の整備に伴って宿駅機能を備えた町並みとして江戸初期に成立し、近年に至るまで町並みの地割に大きな変化はありません。
佐々並市は、伝統的建造物群保存対策調査が2006,7年に実施され、その成果を受けて2011年11月、重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。保存地区は、萩往還を基軸として上ノ町、中ノ町、久年の3つの町で構成され、それぞれの町において、かつてそれぞれの町が担っていた機能に対応した町並みの特質が明確に受け継がれ、かつその特質を反映した民家建築、寺社建築がよく残されている点が特徴です。加えて、江戸期の町並みの状況を詳細に記述する多くの文献が残され、また明治期以降も当時の建物の階数や坪数、屋根の葺材まで記述した書物が存在するなど各種の文書や絵図等が多数存在します。これらを用いて現地との照合を図りつつ、検証することで、佐々並市の失われた町並みについても、かつての状況を復元することができ、町並みの特性の回復を図ることが十分に可能であるという点が選定時に評価されました。つまり、町並みの復元計画を織り込んだ新たな形の伝建地区であるということもできます。
【関連リンク】
・『萩市佐々並伝統的建造物群保存対策調査報告書』2008年
(PDFファイルをリンク)
・『萩市佐々並市伝統的建造物群保存地区保存計画』
https://www.city.hagi.lg.jp/uploaded/attachment/14308.pdf
なお、萩の町並みについては、萩博物館の大槻洋二氏が詳しく著書にまとめておられますので、ぜひ一読下さい。
【関連図書】
・大槻洋二『萩の歴史的町並み 上巻 誕生から現在まで』萩ものがたりNo.72, 2021
https://www.shiseikan.ac.jp/hagi-story/hagistory-backnumber#72
・大槻洋二『萩の歴史的町並み 下巻 城下町と市町』萩ものがたりNo.73, 2022
https://www.shiseikan.ac.jp/hagi-story/hagistory-backnumber#73
2015年にユネスコ世界遺産リストに掲載された「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」を構成するものとして、萩市内から「萩反射炉」「恵美須ヶ鼻 造船所跡」「大板山たたら製鉄遺跡」「萩城下町」「松下村塾」の5資産が登録されました。このなかでも「萩城下町」の果たす全体ストーリー中での役割は「西洋技術の導入に挑戦し、産業文化形成の地となった萩(長州)藩及び萩の地域社会全体の特徴と本質を示す遺産」とされており、その「地域社会全体の特徴と本質」とは「今もなお、城跡や城下町の町割りが、高度に階層化された当時の封建社会を顕している」ことであるとされています(世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」HPより)。
世界遺産に登録されたことは喜ばしいことですが、世界に示すべき萩城下町の価値がこれにとどまるものではありません。実は「明治日本の産業革命遺産」としての登録に先立って、川内(萩三角州内を示す地元の呼称)を中心とする城下町全体を、資産名称「萩城下町—城下町の都市遺産を継承する文化的景観(仮)」として、萩市単独で世界文化遺産に登録すべきとの動きがありました。そのことを意気に感じた故宮本雅明先生(九州大学名誉教授)と私はその推薦図書の作成に携わりました。しかし「明治日本の産業革命遺産」という国内8県にまたがる壮大なシリアル登録の動きが急展開したため、重複して城下町を申請できなくなり、申請を断念せざるを得なくなってしまいました。
この陽の目を見ることのなかった「萩城下町の世界遺産国内暫定リストへの推薦図書(案)」、萩を愛した故宮本先生によって綴られた渾身の文章を通して、萩城下町の価値を確認して頂きたいと考えます。提案コンセプトの概要を一読頂くとわかるように、この文章は萩まちじゅう博物館のあり方そのものでもあります。萩まちじゅう博物館を成り立たせている有形・無形の「おたから」を再発見し、価値付け、継承することを理念とする考え方を、世界遺産申請における萩城下町の顕著な普遍的価値(OUV)説明に応用しました。
ここで宮本先生は、萩城下町を世界遺産にするためには、まず日本の城下町そのものを世界史の中に位置付けねばならないと考えました。海外の都市史研究者は、日本の歴史都市を中国都城の亜流としてしか理解していないとして、先生はその誤解を解き、近世城下町の世界史におけるユニークさを証明しています。その上で、130以上を数えた日本の近世城下町のなかでも、萩城下町の完成度がいかに高いものであるかを解説し、またその価値を今日に継承する有形、無形の資産の質と量が極めて優れているとして完全性と真正性を証明することで、世界遺産たり得る顕著な普遍的価値があると国際社会を説得しているのです。ここで説明されている萩城下町の普遍的価値は、萩まちじゅう博物館の価値の根幹をなすものであり、改めてこれからの展開を支え続けるものと信じています。
(『新・萩まちじゅう博物館』より一部抜粋の上、加筆修正)
【関連リンク】
・世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」HP
https://bunka.nii.ac.jp/special_content/hlinkF
・資料:『世界文化遺産国内暫定一覧表への追加提案書』に故宮本雅明先生が記した提案のコンセプト
(PDFファイルをリンク)
「萩まちじゅう博物館」は、毛利氏による萩開府400年を記念する2004年11月11日、拠点施設である萩市立総合博物館「萩博物館」とともに開館しました。これはフランス発祥のエコミュージアムの考え方に基づくものです。そこでは市域全体を屋根のない博物館とみなし、市民と行政、事業者や訪問者が一体となって博物館活動を展開することで、有形・無形のおたから(文化資源)を日々再発見します。そして発見されたおたからは、ありのままにあるいはより良い状態に手入れされ、住民の語りとともに元からの場所に展示されます。そうしたおたからは、多様な人々や他のおたからとつながって地域の大切な遺産となります。「萩まちじゅう博物館」は、そうした新たな文化活動と地域景観の創造、そしてその基盤に立った観光開発をめざす壮大な取組みです。
平成大合併前の旧萩市を舞台に始まったこの活動は、2005年に1市2町4村が合併した後も、対象を全萩市域に拡大して展開しつづけています。例を挙げれば、26のサテライト・エリアの誕生や世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」への登録、萩ジオパーク「維新とマグマの胎動の地」の日本ジオパーク認定、萩まちじゅう博物館第二の拠点施設「萩明倫学舎」の開設などを経て、活動の輪は広がるばかりです。
詳しくは以下の2冊の本を読んでみて下さい。
【関連図書】
・西山徳明『萩まちじゅう博物館』萩ものがたりNo. 4, 2004(在庫切れのため下記リンクよりpdfを参照下さい)
(PDFファイルをリンク)
・西山徳明『新・萩まちじゅう博物館-明日の観光を考えるキーワード-』萩ものがたりNo.84, 2024
https://www.shiseikan.ac.jp/hagi-story
いまより20年以上さかのぼる2003年10月、萩市は「萩まちじゅう博物館構想」を発表し萩まちじゅう博物館の立ち上げを宣言しました。またこれを施策として実施するため、2004年4月1日に「萩まちじゅう博物館条例」を制定、同年11月の開館を経て、2005年3月に「萩まちじゅう博物館基本計画・行動計画」を策定しました。この構想と計画は2017年の文化財保護法改正で導入された「文化財保存活用地域計画」(以下、地域計画)を先導する役割を果たすこととなります。この本家と言える萩市が「萩市文化財保存活用地域計画」の認定を国から得るのは2024年末でしたが、この計画は、萩まちじゅう博物館のもとに歴史まちづくり法や世界遺産条約、ジオパーク制度などに基づく種々の計画や事業を包括した、萩市の歴史と文化を生かしたまちづくりのマスタープランとなっています。
計画書では「萩市の歴史文化の特性と関連文化財群」と題して、誰もがわかっているようで言葉にできない「萩らしさ」を生み出している3つの背景(特性)、そしてこの3つの背景から9つの「萩ものがたり(関連文化財群)」のストーリーを紡ぎ出しています。これらは萩まちじゅう博物館が人々を惹きつけるデスティネーション・イメージを創り出す魅力の源泉であり、これからの萩まちじゅう博物館の発展の方向性を示す地域ブランドのモチーフともなりうるものと考えます。
【関連リンク】
・萩市文化財保存活用地域計画の認定について
https://www.city.hagi.lg.jp/soshiki/55/h62430.html
「萩まちじゅう博物館」はこれまで20年間、NPO萩まちじゅう博物館が中心となって、自然、歴史文化、人などの資源や景観、環境の価値を発見し保全する「おたからの育成」をおもなミッション(使命)として展開してきました。これからの20年は、こうした活動をより深化、充実させ継続しつつ、一方で国内外から人やビジネスを惹きつけることができるような一層の魅力形成とブランド化を戦略的に実施する段階となるでしょう。
萩市は、開館から16年が経った2020年度に萩まちじゅう博物館の基本構想・基本計画・行動計画を改定しました。この改定は、2020年7月に(一社)萩市観光協会が、地域DMOとしては中国地方で初めて観光庁の「重点支援DMO」に選定されたタイミングと重なり、従来のあり方を継承しつつ、DM(デスティネーション・マネジメント)を強く意識した方向性を加えたものとなっています。
最大のキーワードである「おたから」をマネジメント(発見・保存・保全・活用)することが萩まちじゅう博物館の最も重要なミッションです。このミッションを共有する市民・民間事業者・行政がそれぞれの立場からこのネットワーク活動に参加し、役割を担い、協働して実現していく全体の仕組みを「萩まちじゅう博物館基本計画・行動計画」では「萩おたからネットワーク」と呼んでいます。PPPもDMやDMOという言葉も使われていなかった2000年代初頭ですが、この「萩おたからネットワーク」がめざしてきたのは、おたからのマネジメントという大きなミッションのもとに、官民の様々な主体がたがいの得意技を生かし合い、できないことを補い合って構築するpartnership(相互尊重)の関係であったことがわかります。まさにPPPを地で行く構想であったと言えます。
【関連リンク】
・西山徳明「官民協働(PPP)による文化遺産観光のマネジメント NPOと観光─コラボレーションによる地域振興を目指して」『運輸と経済2009年06月号 特集:NPOと観光』
(PDFファイルをリンク)
・NPO萩まちじゅう博物館
萩まちじゅう博物館は、日本型エコミュージアムとしてJICAの観光開発分野の国際協力技術支援モデルとしても採用され、ヨルダン、エチオピア、ジンバブエ、フィジー、ペルーに技術移転されています。日本政府として国際社会に示すべき、住民が主体となった文化遺産継承と観光開発の優れた取組み事例として見出されました。とくに2007年から始まったヨルダンの旧首都サルトの歴史的市街地へのエコミュージアム開発支援は、JICAの観光開発支援プロジェクトの中でも最も成功した事例とされていると聞きます。
中東諸国の中でも、石油資源をもたないヨルダンは周辺国と比して経済力が劣りますが、一方で歴史的にも王室を中心とした外交に対する諸外国からの信頼が篤く、世界的なプレゼンスを獲得している国で、日本政府もヨルダン国との外交を重視しています。またイスラム教を国教とするヨルダンにはキリスト教信者も多く、両信徒は同じ都市、同じまちの中でいたって仲良く暮らしています。特に支援対象となったサルト市の旧市街地では、イスラム教のモスクとキリスト教の教会が並び建ち、モスクが経営する小学校にはキリスト教信者の子供たちも通っていて、その逆も普通にあることです。
21世紀に入ってから宗教の対立が叫ばれる世界情勢の中で、こうした信者どうしの宥和とそれを体現している町並みや建築群の景観的ハーモニー(調和)を顕著な普遍的価値として唱い、2021年には「サルト−寛容と都市的ホスピタリティの場」としてユネスコ世界文化遺産リストに登録されました。登録時のユネスコによる勧告文には、JICAによる国際協力支援が世界遺産登録に大きく貢献したことがきちんと書き込まれています。
2008年から2017年までのJICA技術協力支援期間内に、萩市からは博物館専門家と景観保全の建築専門家の2名を延べ12回にわたり派遣し、萩まちじゅう博物館モデルのサルト市への技術移転および世界遺産登録支援に甚大な貢献を果たしました。
また2012年からの4年間は毎年、ヨルダン側のカウンターパート(政府・自治体関係者や技術移転の対象メンバー)が毎回5〜10名の構成で延べ25名、本邦研修に萩を訪れ、現地視察や、萩市民や博物館、役場職員等との熱心な情報交換がおこなわれました。こうした萩のもてなしに感謝の意を表したヨルダンからも要望があり、萩市長を始めとする萩市職員も交流にヨルダンを訪れ、萩市とサルト市の友好関係は非常に高まっています。
その萩への感謝と友好の心のあらわれが、2011年2月と2012年11月の2度にわたる萩市でのサルト市紹介イベントへの、ラーイヤ・ビント・アル=フセイン王女の訪問でした。他にも2023年の6-7月にヨルダン観光・遺跡省と国際協力機構(JICA)ヨルダン事務所の共催により、サルト歴史博物館で萩まちじゅう博物館を紹介する写真展も開催されています。萩まちじゅう博物館は国境を越えて様々な人々にインパクトを与えています。