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Ecomuseum
「市民が住みこなす文化遺産 萩城下町」
日本各地で建設された近世城下町は130以上を数え、そのほぼ全てが捨てられることなく近代都市の基盤となった。中でも日本海に向かう三角州に佇む萩は、今も江戸時代の地図を手に歩ける町である。この町がこうした文化遺産となるには、明治に2つの偶然があった。士族授産で導入された夏蜜柑栽培が広大な武家屋敷の地割りをそのまま残し、風よけに土塀や長屋を使い続けたこと、そして、山陰線を三角州内に引き入れずに迂回させたことである。否応なく都市に表裏をつくり出す近代の鉄道駅が無いことで、近世の空間秩序は維持された。
また一藩の城下町を築くにはやや広すぎる三角州に、毛利氏はゆったりとした幅員で道路を敷き、その道のほとんどが隅切りも拡幅もされることなく、軽自動車と自転車によって市民に使いこなされている。これも、無数の土塀がつくる道路空間を今日に伝えた偶然である。
さらに、萩の城下町が、指月山から採られた乳白色の花崗岩と、笠山火山からの黒色の安山岩の2種類の石からできていることを知って見ると面白い。上級武家地で土塀や長屋の基礎に使われた指月石と、加工が容易で下級武家や商家で使われた笠山石、これが明治になると再利用され、入り交じる。路端の石積み模様と昭和、平成に景観保存運動として施された漆喰壁や土壁の修復は、その屋敷の400年間の歴史を雄弁に物語る。そうした手作りで設え積み重なる歴史を、萩市民は、心から楽しんでいる。